Career Leaves ブログ

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オトナは何のために働くの?

ある私立大学で、2年生の正課として、「キャリアデザイン」という講座作りに取り組んでいます。春学期は就業意識の醸成を目的に職業を知るワークを中心に進めました。秋学期は「私の職業観」というテーマで小論文を作成することを期末の目標に、その考える材料として、生涯収支、経済低成長時代、少子高齢化非正規雇用男女共同参画社会などの就労の課題を説明しています。

経済の低迷、終身雇用システムの崩壊、賃金も頭打ち、非正規雇用の増加、若者の負担増。大卒の2割が正社員として就職できずに卒業していく現状があります。世間では就職率95%などと言っていますが、これは正社員になることを卒業まで希望している学生を分母にした数字です。途中で正規雇用を諦め、契約社員派遣社員、フリーターを選んだ人は含まれていません。

前途厳しい、夢のない、重たい話題ばかりです。根拠のない幻想を描きがちな学生たちに現実を知らしめることは必要なのですが、「キャリアデザイン」という講義がそんなことでいいのだろうか、働く喜びや意義をどう伝えればよいのか、と思い悩みつつ進めています。

そもそも、私たちは何のために働いているのでしょう?

もちろん第一に生活費を稼ぐためです。マズロー欲求5段階説で述べているように、①生きるために衣食住の糧を確保し、②安心して生活できるようになることが人間の欲求の基礎です。次に、③会社組織や地域社会に帰属する安心や充実感、④何事かを成し自分の存在価値が周囲に認められる喜びがあります。さらにその先に、⑤人それぞれの自己実現があります。

マズローの説は、④⑤の高次の欲求は新卒などキャリアの初期段階では実現できない、または明確にイメージできない欲求という解釈もできます。自分の体験から、その通りと感じますし、それは年を経て過去を振り返って初めて自覚できることとも思います。だからといって、若い人たちに今の段階で④⑤を求めても無理、と短絡的に捉えていただきたくはありません。不明確でも、現時点では実現できなくても、自分なりの④⑤を追い求めることがキャリア形成の道と考えるからです。

働くとは、社会の整員としての義務と捉えることもできます。

キャリアデザイン講座では、「コンビニ弁当ができるまで」というワークをしたことがあります。普段、何のありがたみも感じずに食べている弁当ですが、私たちの手元に届くまでには、さまざまな職業の人々が係っています。ご飯一つ取っても、稲作農家で米が作られ、農協や卸業者を経て弁当工場で炊飯され、容器に詰められて弁当になります。その過程では運送業者が介在します。稲作農家では、農薬や農機具を使って米を育てますので、そうした農薬や農機具を作るメーカーがいて、その先にはそれらを作る原材料を輸入する商社がいて・・・と際限なく広がります。

みんながそれぞれの持ち場で働いて何かを生産して、それらを他のみんなが利用できるから、現在の豊かな生活ができます。そうした世の中の仕組みを維持、発展させていくこと、そのために働くことは大人の社会人として、一人ひとりの義務でもあります。

ある本で読みました。幸せとは、愛されること、人に何かをしてあげること、人から感謝されること、そして自分の存在を人から認めてもらえること。愛されること以外は、働いてこそ得られる幸せだと。

確かに。私も留学時代、当初は何をするにも周囲の助けが必要で、人に頼ってばかりの自分がイヤになりました。ある時、デザインの授業で、うまく課題ができずに遅くまで研究室に残って悩んでいるクラスメートにアドバイスしたことがあります。翌朝、キミのお蔭でうまくまとまった、と作品を見せてもらったとき、涙が止めどなくあふれました。人に何かしてあげて、感謝される。それがこんなにも嬉しいことかと、30代にして自覚しました。以来、キャリアコンサルタントとなった今も、キャリアの悩みを解決するお手伝いをして「あげている」、とは思っていません。誰かの役に立つ、その喜びを感じたくて悩みを聴かせて「いただいている」、そう考えています。

ドラッカーの『マネージメント』には、3人の石切り工の話があります。

通りがかりの旅人が3人の石切り工に「何をしているのか」、と訊ねました。一人目は、「生活の糧を得ているのだ」と答え、二人目は作業の手を休めず「国中で一番の石切りをしている」と答え、三人目は空を見上げて「大寺院を作っているのさ」と答えました。生活のためと「やらされる」だけの仕事と、何か夢や目標をもって「する」仕事と、同じ仕事でも、捉えかたは人により異なり、その捉えかたによって働くモチベーションや幸せも異なるのです。

小学生の頃のこと。私の生家は和菓子屋で、時折、赤飯の折詰めを「手伝わされた」記憶があります。早朝、眠い目をこすりながら、赤飯を詰めた折箱にふたをして10個ずつ重ねる単調な作業です。ある時、遊びを思いつきました。最初は1段、次は2段と個数を1つずつ増やして階段状に重ねる遊びです。10段完成させ、それを眺めて、「美しい」と独りで悦に入っていました。それを親に見つかり10個ずつ重ねろ、と叱られる前にやり遂げるのです。単純作業が面白くなりましたし、自然に手早く進める工夫をして効率的になりました。振り返って考えると、遣り甲斐のない仕事などない、遣り甲斐は自分で見つけるものと今、私が考える原点だったと思います。

さて、子どもたちに「オトナはどうして働くの?」と問われたら、皆さんはどう答えますか。

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