Career Leaves ブログ

キャリアプランを真剣に考えたいあなた、失敗しない転職活動をしたいあなたと向き合い、共に考えます。

分析事例2: 沖縄の新聞記者になりたかった理由

筆者は学生時代、新聞記者を目指していました。前回、キャリアは必然的偶然の積み重ねと書きましたが、ではなぜ筆者は新聞記者、それも沖縄の地方紙の記者を目指すようになったのでしょう。その動機を自分史から探ってみます。

《働く動機》は仕事の遣り甲斐、自己実現の道に繋がるものであり、それを達成するための原動力となる何か、自己内部から溢れ出るエネルギーとも言えます。この働く動機は、職業体験を経て醸成される部分と、より根源的に幼いころから社会人になるまでのさまざまな体験や家庭環境、社会状況などから育まれるものがあるように思います。従って、働く動機を明らかにするためには、幼いころからの出来事を含めて考えなければなりません。これまで生きてきた《自分史》を辿る作業ということになります。

*****

小学生時代、SL博士やら自動車博士やら、あることにやけに詳しいマニアがどこのクラスにもいたものですが、私は軍事雑誌『丸』を定期購読する《戦争博士》でした。その頃の私は、軍艦や戦闘機のカッコよさと、国のため、他人のために殉ずることにカッコよさを感じていました。小学校2年生のときのこと、私が独りで本屋に行き自分の意志で初めて買った本が、『戦艦大和のさいご/ひめゆり部隊のさいご』でした。吉田満氏の『戦艦大和ノ最期』と、著者を失念しましたが沖縄戦野戦病院の看護婦に動員された沖縄の女子学生の手記を小学生向けに書き下した合冊本です。戦争好きの私は、「戦艦大和」というキーワードに引かれて手にしました。その意味で、ひめゆり部隊または沖縄戦のことを知ったのは偶然にすぎません。十代の若者が戦争に駆り出され地獄絵のような戦場(いくさば)で死んでいく様子をどうイメージすればよいのか、私の想像力は幼すぎ、わからないままでした。ただ重苦しい恐怖を感じつつも、なぜかその後ふと思い出しては幾度となく読み返しました。

高校時代、私はライフル射撃部に所属していました。高校2年の全国大会で、沖縄県代表の女子高校生と話す機会がありました。終始うつむき加減で口数少ない女の子でした。どんな話をしたのか覚えていません。ただ別れ際に彼女が漏らした、「初め、本土の人と話すのが怖かった」ということばだけ、記憶の底に沈殿しました。当時は、恥ずかしがり屋で、沖縄本島から外に出たことがない高校生ゆえのことばとしか思いませんでした。すれ違いに終わった沖縄との二度目の出合いでした。

私の沖縄との三度目の出合いは、大学生になってからです。近現代史を学ぶ過程で、日本本土から差別され、今も米軍基地が島の面積の多くを占める沖縄の戦中・戦後史を調べてからです。戦前、学校で沖縄方言を喋ることは禁じられ、戦中、方言を喋った県民がスパイ容疑で日本兵に処刑されたりしました。あの沖縄の高校生が漏らしたことばが、不意に蘇りました。「本土の人と話すのが怖い」とは、これだったのだ、戦後生まれの彼女ですら怖いと感じる日本人とは何なのか、自分は何者なのかという思考を含め沖縄への関心が高まりました。それに気づいたときが、私にとって沖縄との本当の出合いだったと言えます。

世の中は、さまざまな未解決の課題を抱えつつ動いています。日本近現代史または戦争という観点から言えば、台湾、朝鮮、中国をはじめアジア諸国で日本がしてきたことも大きな課題です。それらのなかでなぜ沖縄なのかというと、記憶の底に眠っていた2つの沖縄体験あって、3度目の出会いが私に大きなリアリティをもって立ち現われたからと解釈しています。

実家は田舎で和菓子店を営んでいました。私は長男で後継ぎの立場です。家族からもそのように言われていましたので、将来はどこか老舗の和菓子店に丁稚奉公して修業し、職人になると特に疑問をもたずに思っていました。東大安田講堂の事件をテレビニュースで見て、「あんなことをする大学には行かない」と小学校の担任教師に話し、担任に驚かれたことがありました。政治的イデオロギーの故ではもちろんなく、和菓子の丁稚奉公の対比として、大学は学問をする場所という理解が自分のなかにあったように思います。

父は田舎の小さな和菓子店に将来性はなさそうと考えたのでしょう。これからは学歴が大事という親心もあったのでしょう。県立の進学校に入学した後は、大学に行くことが既定の進路になっていきます。私の中には、大学に行けば受験のための退屈なお勉強ではなく、自分が関心をもったことを掘り下げる学問ができる、という希望が育ちつつありました。ただ高校生の私の悩みは、では大学で何を学ぶのか、具体的なイメージがなかったことです。そして、小学生の頃、戦争がカッコいい、と感じていた自分自身に対する拒否の念と言いますか、悔恨の思いが、大学で日本の近現代史の勉強に打ち込む原動力になっていきます。その志向が先に述べた過去の沖縄体験と重なって、沖縄問題への関心に収斂したと今は解釈しています。

*****

沖縄に自分が主体的に係わる方策はいろいろあったと思います。仕事は仕事でしながらボランティアで何らかの政治・社会活動に参加することもできたでしょう。基地経済に頼らない沖縄を実現すべく産業を振興する実業家や政治家、官僚になるなど自分にその能力があったかどうかば別問題として、いくつもの選択肢があったはずです。しかし学生時代は、だれもがそうであるように職業や働くことのイメージは漠としていました。お金儲けに関心がなく、役人にも胡散臭いものをなんとなく感じていました。そんな中、卒論で桐生悠々という新聞人に取り組み新聞記者の仕事に魅力を感じたこと、文章を書くのが好きだったことから、新聞記者という職業を思いつきました。ある意味、狭い視野から発想し、見い出した進路でもあります。

だからといって、あの時こうしていればよかった、などと後悔はありません。こうして自分史を辿る作業を経て、あの時の自分はそうだった、とすこし引いて客観的に受け入れることができます。