Career Leaves ブログ

キャリアプランを真剣に考えたいあなた、失敗しない転職活動をしたいあなたと向き合い、共に考えます。

大学で教えるということ2

研究室の机には、大学時代の恩師・Y教授の写真を置いています。 「あなたが学生だった私にしてくださったことを、今度は私もしたくてここにいます。行ってきます」と写真に挨拶して、日々、授業に向かいました。4月に開講したキャリア教育科目「キャリアデザイン」も7月末で15回の授業を終え、お盆休み前に学生の成績評価を登録し、春学期の仕事をすべて完了しました。

第1回目の授業が忘れられません。 科目の登録が間に合わず、学生に配布された科目一覧には掲載されず掲示板のみで開講を告知しました。初授業開始5分前になっても学生は一人も現れません。教室を間違えたかと書類を確認しましたが、合っています。開始3分前、「ここ、授業あるんですか?」と、偶々通りかかった学生が誰もいない教室を不審そうに見渡しました。結局、出席者はその学生のみ。1対1で90分、まったりと過ごしました。

その翌日、授業案内のチラシを作りました。 じっとしていても始まらない、サークルの新歓で賑わうキャンパスでビラ配りしようか。国立大学の教員が授業のビラ配りなど前代未聞では、と逡巡していたところ、ある教員にアドバイスされ、いくつかの授業の冒頭で1分、科目の紹介をさせていただきました。お陰様で、55名が履修してくれました。

授業内容はキャリア開発の入門編で、主に自己理解と職業理解です。自己理解は長所・短所を抽出し、短所を長所に置き換えるワーク(たとえば、飽きっぽい → 好奇心旺盛)により自己肯定感を醸成したり、他己分析で他者から見た自分を確認したり。私たち人間は自分が知っていること、経験したことからしかものごとを考えることができません。世の中にどんな仕事があるのか、そのイメージが湧かない限り、自分は何がしたいのか、何ができるのかと考えても答えは見つかりません。職業理解では、職業探検プロジェクトとして4名チームに分かれ職種や業界について調べて発表させました。

授業では、講義よりも個人ワークや質疑応答、グループ・ディスカッションで学生の気づきを促す、自己発見的教授法で行いました。誰でも妥当と判断できる「正解」を求める高校までの受験教育とは異なり、大学では自ら考え、自分の答えを追求することが求められます。それができてこそ大学生であり、将来社会人として求められる「自ら考え、行動できる人」になる基礎でもあります。そのことを、初年次教育の段階で学生たちに身につけさせたいと考えたのです。

実際、キャリア形成に唯一絶対の正解はありません。 Aさんにとって妥当な選択肢が、Bさんにとっても妥当とは限りません。それにキャリアは、それぞれが自ら切り拓くものでもあります。考える材料を与えるのみで明確な正解が示されない授業に、学生たちは戸惑い、不安を覚えたようでした。答えが見つからないのは、自分がダメだからでは、自分のやり方がよくないのでは、と。厳しい大学受験を勝ち抜いてきた優等生たちとはこんなに短絡的でひ弱なのか、と実感しました。

答えは今すぐ見つからなくてもいい、今は世の中に関する知識、つまり考える材料を増やす時なのだ、と学生たちが気づき、落ち着き始めたのは講座も中盤に差し掛かったころからでしょうか。それも、他の学生も自分と同じように答えが見つからず悩んでいる、とグループ・ディスカッションを通じて実感してからです。これも優等生らしい。

教壇に立つ私自身、さまざまな気づきや驚きがありました。 受験中心の教育を経た学生たちは、活字情報はある意味「教科書」であり、記載されている情報は正しい前提でそのまま素直に受け入れます。情報を疑ったり、この情報はどう読むのが妥当かと思考する訓練を受けていません。あるとき、同じニュースでも新聞により論調が異なるという話をした際、驚きの表情をした学生が多数いました。

学生を飽きさせないようものごとを面白おかしく語る話術は、私にはありません。不器用で表情も硬く、親しみやすい教員でもありません。でも、ことばは伝わりました。大切なのは話のテクニックではなく、コンテンツです。学生の知識レベルに合わせて、または学生がリアリティを感じるレベルに伝えるべき内容を落とし込めるかどうか。さらに、教員としての伝える姿勢です。この人は何かを真剣に伝えようとしている、と感じてくれれば、学生は耳を傾けてくれました。あっという間に過ぎた15回でした。平均出席率は92%、授業中の私語やスマホ操作は皆無で、学生たちは熱心に参加してくれました。

「お前はそもそも、大学で何を教えるんだ?」 半年前の父の問いが、常に脳裏から離れませんでした。

「キャリア」はいわば材料、手段に過ぎないのかもしれません。キャリアというテーマを通じて、ものの見かた・考えかた、さらにはコミュニケーションのありかたを伝えることが私の役割ではないか、と今にして思います。

今日まで出席してくれて、ありがとうございました。 最後の授業の終わりに、学生たちに頭を下げました。学生の間からパラパラと拍手が聴こえました。ありがたさと気恥ずかしさで、学生たちに顔を向けられませんでした。最後まで不器用な教員です。

親は子のお蔭で親に成長するように、教師は学生によって教師にさせていただいている。まだまだ発展途上です。

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『4つの山を越えよ・ポスト終身雇用時代の転職術』を出版しました

4つの山を越えよ・ポスト終身雇用時代の転職術

・A5版ペーパーバック 150ページ ・価格:1600円(消費税込:1680円)

転職氷河期の高いハードルを越え、失敗しない転職を実現するための方法論を解説する本です。多くの求職者は転職活動イコール応募活動と求人を漁り、安易に応募してしまいます。その結果ことごとく書類審査で不採用になり、自信を失うのです。転職のゴールは内定獲得ではなく、新しい職場でキャリア形成の足場を構築することのはず。キャリアコンサルタントとして、千数百名と向き合ってきた著者が、転職活動のマイルストンを4つの山にたとえて、その実行方法の体系化を本書で試みました。合わせて、人材紹介会社の活用方法や職務経歴書の書きかた、面接の臨みかたなどを豊富な事例を交えて現実に即して解説しています。

内容の詳細・購入方法

テーマは転職術ですが、単なる転職のハウツウではなく、社会人として自律的なキャリア形成を実践する手段の1つとして、転職をどう捉えるかという視点で書きました。詳しくは、キャリアリーブス叢書のページをご覧ください。

本の目次、本文のサンプルなどを掲載しています。なお本書は、アマゾンPOD(Print On Demand)で出版しますので、一般の書店に流通しません。キャリアリーブスのホームページよりアマゾンにアクセスし、ご購入いただけると幸いです。ご一読いただけると嬉しいです。

『4つの山を越えよ』 編集後記

キャリアリーブス叢書の第2弾をやっと世に出せました。『キャリアの手帖』同様、キャリアコンサルタントになりたての頃から気づいては書き溜め、さまざまな転職希望者との対話を経て修正を加え、約7年が過ぎました。キャリア形成や転職活動に絶対のセオリーはありません。これで言い表せたと思っても、1年後に改めて読み返すとこの視点が欠けている、あれが足りない、と新たな学びや気づきを加筆・修正を加えて今日に至りました。

最近の数年は、社会人のキャリアコンサルティングに加えて、大学生のキャリア教育や就職活動支援にも携わっています。キャリア形成の一歩を踏み出す学生たちと交わることで、新たに見えてきたこと、教えられたことがたくさんあり、そうした学生の気持ちで社会人のキャリア形成や転職を観る視点も加わりました。これら一連の思考や作業に終わりや完成はありません。今現在の、筆者なりの到達点として本書を受けとめていただければ幸いです。

『キャリアの手帖』と同じく、アマゾンのPOD(Print On Demand:在庫を持たずに、注文を受けたら都度印刷するしくみ)サービスを利用しての出版になります。出版社が在庫を持たない分、著者負担は最小限ですみますので、PODなら数冊のシリーズ本が出せると思い、採用しました。

ページ数は150ですが、通常の単行本では200ページを超える文字量です。ページを減らし単価を下げるため、目で追うのに負担にならない範囲で文字を詰めて1ページの文字量を増やしました。それでも発売単価は1600円になり、ご購入いただける皆様には申し訳ないと思っています。ほんとうは1000円以内に収めたかったのですが、どうぞご容赦ください。

私なりに、精一杯書きました。 皆さん、ご一読いただけると嬉しいです。

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さとり世代の学生たち

最近、「さとり世代」という表現をよく耳にします。 インターネットの掲示板で、自然発生的に生まれたことばだそうです。朝日新聞の記事(2013.4.24 朝刊)によると、年齢層としては、10代から20代半ばでゆとり教育を受けた世代にほぼ重なります。バブル崩壊とその後の景気後退の時期に幼少期を過ごしました。インターネットの普及で、ものごとの結果を先に知ってしまい、合理的に動きます。無駄な争いを避け、反抗期らしい反抗期がなく、親にも教師にも従順で、「ほどほど」が彼ら・彼女らの合言葉だ、とか。

さらにその特徴としては:

車やブランド品、海外旅行に興味がない。お金を稼ぐ意欲が低い。地元志向が強い。恋愛に淡泊。過程より結果を重視(して最初からあきらめる)。ネットが主な情報源。読書好きで物知り。

大学でキャリアデザインという講座を開講して1ヵ月が過ぎました。1年生を中心に履修生は54名。男女比は6:4、人文・社会・自然科学系学部からまんべんなく集まりましたので、大学の最大公約数的な学生たちです。

ほぼ満室に近い教室は、授業開始直前ざわついています。これは大きな声を出すか、教壇を叩くなどしないと静まらないかと当初思いました。ところが、マイクなしの普通の声で「では授業を始めます」と告げると、一瞬でシーンとなります。開講直後のせいもあるかも知れませんが、今のところ出席率は毎回95%くらいです。90分間、私語はありません。携帯端末をいじる学生もいません。たまに睡魔に襲われる学生を1〜2名見受ける程度で、とにかく素直で熱心というか、従順で驚いています。

毎回、授業評価のアンケートを取っています。学生の声として印象に残るのは、「誰か意見は?」と全員に問われても答えにくい、意見があったけど言えなかった、というもの。これは教師としての私の質問設定の問題であり、学生の積極性の問題でもあります。授業では手始めに、さまざまな個人ワークで自分の行動性向や他者から見た自分を浮き彫りにする作業に取り組んでいるのですが、これをするとどう役立つのか知りたい、という意見もありました。それは自分で考えてほしいのですが、結果や有用性を確かめないと安心できないのもさとり世代の特徴のようです。

開講時に、大学で学ぶ目的意識や自己理解度、将来の進路に関するアンケートを取りました。自分自身の強み・弱みについて理解していると答えた学生が多い一方で、他者からどのように見られているかはよくわからないと答えた学生が多いのが目立ちました。インターネットのSNSや携帯メールでのコミュニケーションが当たり前の世代ですので、同世代の友人を含めて交わりが表面的なのでしょう。

また、卒業したら社会人として働く意識が高いのが意外でした。一方で、何をしたいのかわからない、就職できるか不安と答えた学生が目立ちました。働くことに強い責任感、義務感を抱きつつどうしていいのか、何から始めていいのか分からないということのようです。前任の私立大学では、何をしたいのか分からないというのは同様でしたが、就業意識が希薄で、卒業後の進路、というよりも生きることにリアリティを感じていない学生が多かったのですが、国立大学の学生は真面目だなあ、と感じました。

その真面目で、受験を勝ち抜いた成績優秀な学生たちにも、2・6・2の法則が成り立ちます。集団の中では、優秀層が2割、普通が6割、残り2割に分かれるというものです。就活を例にすると、上位層は自力で動いて内定を取れる学生たちで、中間層は大学教職員のサポートを受けつつ内定を取る学生たち、下位層はかなり手取り足取りで面倒を見ないと難しい学生たちです。

上位の2割と下位の2割のアンケート結果を比較すると、大学で学ぶ目的意識、自己理解度、将来の進路の明確さすべてにおいて上位層は相対的に高く、下位層は低いです。下位層は、大学に来た目的があいまいで、自分に自信が持てず、将来の進路を考えると不安ということになります。大学入学時、多くの学生は現実離れの夢も含めて希望に満ちているか、受験からの解放感で羽を伸ばして遊びや新たな出会いに興奮しているか。いずれにしても、ポジティブな心境の学生が多いのではと予測していました。大学生活の中で、遊びほうけたり、より具体的な目標が見い出せなくなる過程で、2・6・2に階層分化していくのではないか、と私は考えていたのです。しかし、結果は入学段階から2・6・2の階層が存在していることがわかりました。

いわゆる不本意入学(第一希望ではない大学に入学)の学生が下位層かというと、必ずしもそうではありません。どうせ僕なんか…と気持ちを整理できず、または挫折感から立ち直れない下位層の学生が存在する一方で、受験では東大に行けなかった、でも社会人になったら東大卒に負けたくないと意欲的な学生(アンケートでは上位層)もいます。

上位の2割は黙っていても自分で未来を切り開く行動力のある学生です。係わり次第で上位層にも下位層にもどちらにも転ぶ6割の中間層と、学力はそこそこ優秀にもかかわらずすねている2割の下位層の学生に対し、私はどう手当てすればよいのか。「さとり」を崩す、または新たなモチベーションを創るキャリア教育が必要で、どうすればそれを実現できるのか、それが今年の課題になりそうです。

大学で教えるということ

4月からある国立大学の講師になりました。 過日、田舎の父親にそのことを報告すると、「お前はそもそも、大学で何を教えるんだ?」と問われ、ことばに詰まりました。

まず通年で「キャリアデザイン」という科目を担当します。キャリア形成のベースになる知識や手法、具体的には自己理解、職業理解、就業の現状理解から、最終的に学生が自分の職業観を醸成することが目標です。私たち人間は自分が知っていること、経験したことからしかものごとを考えることができません。キャリアに関わる既知領域を拡げ、卒業後の進路選択場面において、自分らしい思考と行動ができるようになることを目指します。

秋学期は、上記に加え2科目を開講する予定です。一つは「キャリア・ケーススタディ」で、これは現役の社会人をゲストに招き、その方のキャリア遍歴やキャリア形成上の悩みを語っていただき、学生たちとディスカッションしようと考えています。経営層の方に経営論やリーダーシップ論を語っていただいたり、第一線で活躍中の方にビジネス成功事例を語っていただく、言わばロールモデルを示す講座は各大学に多く存在します。私は、普通の社会人の多くが直面するキャリアの壁、つまり職場での自律的なスキル形成や、結婚や子育てと仕事との両立、同僚や上司との人間関係の悩みなどを取り上げるつもりです。40年に及ぶ社会人人生の過程では、世代により、職種・役職により、性別により、さまざまなキャリアの転機が訪れます。学生たちが、リアリティある課題としてそれらを疑似体験することで、将来、壁にぶち当たったときの体力、免疫力をつけさせたいのです。

もう一つは、「ビジネス・コミュニケーション」という講座です。グローバル人材が求められる昨今ですが、仕事上の人との係わりは、日本人同士でも異文化コミュニケーションです。企画書・議事録・Eメールなどの論理的でわかりやすい表現技術、上司・同僚との協業のしかた、説得・説明のしかた、海外との連携・交渉術など、ビジネス上のコミュニケーションのありかたを学ぶのが目的です。気の合う仲間との学生同士の付き合いと異なり、ビジネス社会ではさまざまなバックグラウンドをもち、年齢も役割も異なる人々との協業になります。理論よりも具体的な事例や実践的なワークにより考えます。

・・・というようなことをシラバス(開講科目の概要説明)には書きました。 だから、何なんだ? 結局、何を教えるんだ?

父の素朴な疑問は、私には、私という人間に突き付けられた根源的な問いに感じられ、即応できずに、沈黙してしまいました。

それから、1か月余り、考えました。 そして結局、私は何も教えられない、と気づきました。 私にできることは、学生たちがそれぞれに自分の人生とはどんなものか、どうしたいのか、と考えるきっかけを作ることだけなのです。

「キャリア」の語源は、馬車の轍(わだち)、つまり馬車が通った後の軌跡のことです。キャリア形成論のような理論で教えられるものではありませんし、学べるものでもありません。それに私は、キャリア研究の学者ではありません。読者の皆さんと同じように、自分の現状に悩み、もがきながら歩んできた職業人の一人であり、キャリアコンサルタントとしてそうしたキャリア課題に向き合ってきた実務者でもあります。

理論よりも、自分の体験を経験化して提示するほうが、学生たちの役に立つのではないか。どうあがいても、それしか、できないではないか。そう考えたら、気持ちが楽になりました。

キャリア論とは無縁の、和菓子職人だった父に感謝。

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オトナは何のために働くの?

ある私立大学で、2年生の正課として、「キャリアデザイン」という講座作りに取り組んでいます。春学期は就業意識の醸成を目的に職業を知るワークを中心に進めました。秋学期は「私の職業観」というテーマで小論文を作成することを期末の目標に、その考える材料として、生涯収支、経済低成長時代、少子高齢化非正規雇用男女共同参画社会などの就労の課題を説明しています。

経済の低迷、終身雇用システムの崩壊、賃金も頭打ち、非正規雇用の増加、若者の負担増。大卒の2割が正社員として就職できずに卒業していく現状があります。世間では就職率95%などと言っていますが、これは正社員になることを卒業まで希望している学生を分母にした数字です。途中で正規雇用を諦め、契約社員派遣社員、フリーターを選んだ人は含まれていません。

前途厳しい、夢のない、重たい話題ばかりです。根拠のない幻想を描きがちな学生たちに現実を知らしめることは必要なのですが、「キャリアデザイン」という講義がそんなことでいいのだろうか、働く喜びや意義をどう伝えればよいのか、と思い悩みつつ進めています。

そもそも、私たちは何のために働いているのでしょう?

もちろん第一に生活費を稼ぐためです。マズロー欲求5段階説で述べているように、①生きるために衣食住の糧を確保し、②安心して生活できるようになることが人間の欲求の基礎です。次に、③会社組織や地域社会に帰属する安心や充実感、④何事かを成し自分の存在価値が周囲に認められる喜びがあります。さらにその先に、⑤人それぞれの自己実現があります。

マズローの説は、④⑤の高次の欲求は新卒などキャリアの初期段階では実現できない、または明確にイメージできない欲求という解釈もできます。自分の体験から、その通りと感じますし、それは年を経て過去を振り返って初めて自覚できることとも思います。だからといって、若い人たちに今の段階で④⑤を求めても無理、と短絡的に捉えていただきたくはありません。不明確でも、現時点では実現できなくても、自分なりの④⑤を追い求めることがキャリア形成の道と考えるからです。

働くとは、社会の整員としての義務と捉えることもできます。

キャリアデザイン講座では、「コンビニ弁当ができるまで」というワークをしたことがあります。普段、何のありがたみも感じずに食べている弁当ですが、私たちの手元に届くまでには、さまざまな職業の人々が係っています。ご飯一つ取っても、稲作農家で米が作られ、農協や卸業者を経て弁当工場で炊飯され、容器に詰められて弁当になります。その過程では運送業者が介在します。稲作農家では、農薬や農機具を使って米を育てますので、そうした農薬や農機具を作るメーカーがいて、その先にはそれらを作る原材料を輸入する商社がいて・・・と際限なく広がります。

みんながそれぞれの持ち場で働いて何かを生産して、それらを他のみんなが利用できるから、現在の豊かな生活ができます。そうした世の中の仕組みを維持、発展させていくこと、そのために働くことは大人の社会人として、一人ひとりの義務でもあります。

ある本で読みました。幸せとは、愛されること、人に何かをしてあげること、人から感謝されること、そして自分の存在を人から認めてもらえること。愛されること以外は、働いてこそ得られる幸せだと。

確かに。私も留学時代、当初は何をするにも周囲の助けが必要で、人に頼ってばかりの自分がイヤになりました。ある時、デザインの授業で、うまく課題ができずに遅くまで研究室に残って悩んでいるクラスメートにアドバイスしたことがあります。翌朝、キミのお蔭でうまくまとまった、と作品を見せてもらったとき、涙が止めどなくあふれました。人に何かしてあげて、感謝される。それがこんなにも嬉しいことかと、30代にして自覚しました。以来、キャリアコンサルタントとなった今も、キャリアの悩みを解決するお手伝いをして「あげている」、とは思っていません。誰かの役に立つ、その喜びを感じたくて悩みを聴かせて「いただいている」、そう考えています。

ドラッカーの『マネージメント』には、3人の石切り工の話があります。

通りがかりの旅人が3人の石切り工に「何をしているのか」、と訊ねました。一人目は、「生活の糧を得ているのだ」と答え、二人目は作業の手を休めず「国中で一番の石切りをしている」と答え、三人目は空を見上げて「大寺院を作っているのさ」と答えました。生活のためと「やらされる」だけの仕事と、何か夢や目標をもって「する」仕事と、同じ仕事でも、捉えかたは人により異なり、その捉えかたによって働くモチベーションや幸せも異なるのです。

小学生の頃のこと。私の生家は和菓子屋で、時折、赤飯の折詰めを「手伝わされた」記憶があります。早朝、眠い目をこすりながら、赤飯を詰めた折箱にふたをして10個ずつ重ねる単調な作業です。ある時、遊びを思いつきました。最初は1段、次は2段と個数を1つずつ増やして階段状に重ねる遊びです。10段完成させ、それを眺めて、「美しい」と独りで悦に入っていました。それを親に見つかり10個ずつ重ねろ、と叱られる前にやり遂げるのです。単純作業が面白くなりましたし、自然に手早く進める工夫をして効率的になりました。振り返って考えると、遣り甲斐のない仕事などない、遣り甲斐は自分で見つけるものと今、私が考える原点だったと思います。

さて、子どもたちに「オトナはどうして働くの?」と問われたら、皆さんはどう答えますか。

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